言語ゲームと社会理論

言語ゲームと社会理論―ヴィトゲンシュタイン ハート・ルーマン

まずこの本は言語ゲームについて書かれているのですが言語ゲームとは何か?ゲームと言えばトランプなどを連想しますがもちろんそれも言語ゲームなのですがそれだけでなく挨拶や数学など。人間のふるまい一般のことです。これをヴィトゲンシュタインという人は調べました。

ところで著者は、社会学者なのですが社会学では社会について説明する時、方法論的個人主義と方法論的集団主義とがあります。

これは個人の内面から社会を説明しようとする方法です

例えば個々人が統治機構と契約を結び自然状態から社会を作ったという社会契約説やプロテスタントの規範が資本主義を作ったという資本主義の精神、商品の価値は個人の主観による効用(その商品によって得られる満足感)によって決まる効用価値説などは方法論的個人主義から導き出せる結論です。

それに対して方法論的集団主義とは、社会的事実からその社会を説明する方法論です。例えばその社会の権威がなくなると自殺率が上がるなどは方法論的集団主義から導き出されます。

社会学では方法論的個人主義が主流なのですが方法論的集団主義エミール・デュルケームの系譜を引く社会全体の仕組みからそこにいる人々をしらべるレヴィ=ストロース構造主義人類学が発展してきました。

そこで著者は言語ゲームというものについても社会学に応用できるのか?という風に考えていたのが印象に残りました

ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム言語ゲームという全体の構造を考えてから主体がどのようにその言語ゲームを根拠付けているのか?を考えていて方法論的集団主義と考えが似ている気がします。

ヴィトゲンシュタイン言語ゲームは前記と後期で考えが変わります。

前記ヴィトゲンシュタインは言語を世界を写した写像関係にあると思いました

例えばりんごという言葉はりんごという物体の名を示していますし、現実にりんごが木から落ちたら言語でりんごが落ちたと言い表されることが出来ます。

現実に起こった意味に言語として名をあたえて言語と世界とを繋ぐ哲学的自我が存在します。

りんごという言葉にはりんごという言語とりんごという意味がありますがそこにはそのりんごという言語をつくりだし、それに意味をあたえる哲学的自我は意味としても言語としても存在しません。

もしりんごという言葉ににりんごといちごという2つの意味を哲学的自我が与えたら人間の精神は一度には一つの思考しかできないのでおかしくなってしまいます。

この考えは独我論(この世界には自分しか存在しないという考え)的な考えです。

なぜならみんな哲学的自我の定義した意味に従って言語を使っているからです。

これが前記のヴィトゲンシュタインの考えです。

後期のヴィトゲンシュタイン言語ゲームの考えはまず言語と世界の写像関係を否定します。

言語は積極的に意味を指し示すのではなく例えば、りんごは赤いといった時にはりんごは青くない、りんごは白くないという風にそれ以外のものを否定することで現れる消極的なものだと考えました。

そして主体は1つではなく複数いるように考えました。

意味と言語をつなぐのが哲学的自我はどうやって言葉が通じない人にそれは赤色だと指し示すことが出来るでしょうか?

それをいくら言語で説明しようとしても言語が通じないのではどうしようもありません。つまりその言語はそれが各々に承認されていなければなりません。

 またヴィトゲンシュタインは数学や論理学といったものも言語ゲームであると考えました。

数学や論理学は人を絶対的な正解(心理)へ導くものと考えられていましたが、ヴィトゲンシュタインはまず数学の扱う数字や無限というものは人間が創りだしたもので現実には存在しないと考え、また論理学についても数学を根拠づけるものではなく数学から規則性を取り出すことで生み出されたものにすぎないと考えました。

ある命題に対してそれが正しい根拠を示しても、その根拠が正しいという根拠を示さなければそれが正しいとは限りません。

しかしそのような試みはどこかで終わってしまします。

根拠はそれ自体の根拠を示すことは出来なくても自身が根拠として振る舞うことで自らを支えているのです。

では自分達は言語ゲームと現実はどのようにして調和のあるものとなるのでしょうか?

言語ゲームは現実と一致するように手を加えられるのではなく、現実と調和するように言語ゲームは作られていくと考えました。