社会と自己決定

自己責任という言葉があります。自分の行った決定に対しては自分で責任をとれという意味です。自分たちの暮らしている社会というのはこの原理で動いています。例えばある事故が起こったら誰がどういう選択を行ったが故に(それが作為であれ、非作為であれ)起こったのか?と個人の決定に原因を結びつけるようにしています。

社会契約説という考えがあります。これは社会、国家は自由で平等な個人の契約によって形成されたという説です。なら社会は社会の構成員達の決定によって作られて社会の構成員達は自分自身で社会の構成員になったということになります。この考えは近代社会でも取り入れられているようです。

しかし、自分はそんな契約を日本政府と結んだ覚えはありません。多分殆どの人がそうだと思います。しかし、自分は日本という国の一員です。自分では決断していないけどそうなっています。

高校の時に国語の授業でI  was  born http://www.mabi.net/Poetry/Yosi_03.htmlという詩を読んだことがあります。I was bornというのは受身形です。主人公は自分自身の決定によって生まれたわけではなく、母親の意志によって産み落とされました。

人間には自分の決定以外に自分以外のものによって構成される部分があります。例えば国籍、家など。そういった部分は他者によって構成されます。こういった部分の中には自分の望まない部分もあると思います。

近代社会はすべてが個人の決断に原因を結びつけます。例えば王権神授説という考えでは社会の中にいる個人は決断する余地はありません。人間は不自由ではありますが、その他にも個人に原因を結び付けない優しさというものもあると思います。岡田斗司夫が言っていましたが、スリランカの悪魔祓いという本でスリランカでも引きこもりというのはいるのですが、それを部屋から引きずり出すために三日三晩踊り悪魔をひきこもりに取りついている悪魔を追い出すそうです。スリランカでは引きこもりは悪魔が取りついているからということらしいです。それは一種の個人に原因を結び付けない優しさというものを感じます。しかし近代社会ではそういうものはありません。

為末大さんが努力しても無駄その体に生まれるかどうかが99%と言っていましたがこれも一つの優しさだと思います。

その体に生まれるかどうかは自分で決められることではありませんよね。もちろん努力しても無駄というのは厳しい現実ではありますが、仕方がないものは仕方がないであきらめるしか無いと思います。

自分でどうにかできない社会というのは理不尽ですが、自分で決断する社会というのも厳しい社会です。こういう社会に上手く折り合いをつけていくのが大事だと思います