言語ゲームと権力

ハートの法理論から権力と言うものについて考えて見ます。

法理論と権力の理論というのは似ているところがあります。

権力の理論には権力の発生する源泉を従うものと従わせるものという単純な2者関係の中に見つけようとする試みがありこれを個体主義的接近法といい、反対にこの二者関係による相互作用ではなく全体的な作用として権力を捉えようとする集合主義的接近というものがあるのですが、権力を集合的接近で考えてみます。

なぜ集合的接近なのかというと、個体的接近ではなぜ被服従者が支配者に従うのかを二者関係のみからでは説明出来ないからです。

権力は人々の間で集合的に作用し、人々の了解を経由し、最終的に人々を拘束するものと考えます。

権力の作用する過程は、ルールは人々が承認を満たすことで認められ人々自身に責務を課されるという正当性を得るというハートの法理論と似ています。

では権力とは言語ゲームなのでしょうか?

権力は言語ゲームではありません

権力は法などの特定の言語ゲームを実現させたりします。

しかし権力自身はルール(言語ゲーム)に縛られたりはしません。むしろ言語ゲームを実現させたり、消滅させたりと支配するのが権力です。

なぜこのように考えるのかというと言語ゲームには(内的視点としての)規範=(外的視点としての)事実という二重性から来ています。

言語ゲームのルールは規範として人々を捕らえるがすべてのルールが人を捉えるわけではありません。ある言語ゲームのルールが事実として人を捉える働きがあるときこれを権力といいます。

権力によって法の体系は見える形になりますがしかしそのかわり自分は見えなくなります。

実際何がその言語ゲームを成り立たせるのかを見ようとしても承認のルールしか見えてきません

では権力をどのようにして捉えればよいか? それは実際に潜在的に成立している言語ゲームの有り様をそのまま権力のあり方として捉えることです。

ハートは法の概念の最終章を国際法で締めくくっているのですがハートの国際法では二次的ルールは存在せずほとんど一次的ルールしかありません。

国際法は人ではなく国を対象にしているのですが、国が統治する法は二次的ルールが存在するのに対して、その国を対象にする法には二次的ルールがなく、対照的です。

実際に効力のある法的ルールというのは承認のルールによって見ることが出来るのではなく、実際に起こっているという事実からのみ(つまりルールの外部からのみ)見ることができるのです。

そして、国家というものは外的視点(実際にルールに従っているという事実)からのみ見ることが出来るのです。

関係ないのですが、これは社会契約説と対照的だと思います。

社会契約説は、人々が契約(承認)によって統治機構に主権を与えたという考えで、社会契約説という言語ゲームの内的視点から国家を見ていると言えます。

法というのは、人々の承認によってそのルールに従っていると、内的視点からは考えれますが、外敵視点からは権力によってそのルールを事実として有効なものにしていると見えるのです。

ルールから国家というものがどのように出来ていくのか?を考えてみましょう

社会には複数のルールが存在します。あるルールを守ると別のルールが守れなくなるということが起こったとします。

その時2つのルールはそれぞれそれぞれに対して外的視点を取り、抹消しようとします。

この時どちらのルールに人々は従い現実となるかは不確実です。

この2つのルールは自分自身の正当性が疑われていてこの2つのルール自体はこの事態にどうにもなりません。このことにハートは見抜いて二次的ルールを考えました。

二次的ルールはルールとそのルールに関わる行為に言及し、両方をつなぎ合わせます。

こうして二次的ルールは一次的ルールの不確実性を取り除くことが出来ます。

しかし、その二次的ルール事態も不確実なもののはずです。

二次的ルールの不確実性は見えないで放置されているだけなのです。

二次的ルールは、一次的ルールの不確実性をなくすのではなく、一次的ルールに対する優位性を示すことで人々にそのルールに従っていると信じさせることです。

権力は言語ゲームに人を巻き込み従わせるのですが、その時人々は事実を言語ゲームの内的視点で見て、逆に言語ゲームの外的視点からは見えなくするのです。

自分達は権利という言葉を用いずに日常生活を送ることが出来るでしょうか?

自分達の生活は権力によって言語ゲームの内的視点につなぎとめられているのです。