人の価値観について
nhkのクローズアップ現代でポエムについての特集を動画で見ました。
この居酒屋で働いている人達は自分の意志で働いているわけですが見ているととても痛々しいように見えます。
人間は社会に影響されます。自分の価値観や考え方というのも自分一人でつくられたものではなく、社会との関わりで出来たものです。逆に人間は社会との接触なしでは価値観を作り出すことは出来ません。
なので、自分たちの価値観も社会に影響を受けている以上他人に対してその価値観は間違っていると言うことは出来ません。
しかし、明らかにその考えは間違っているというようなのを見かける場面というのはよく見かけます。
例えば宗教にハマっているとか
しかし人間というのは周囲の環境によって決まるとは思いません。
社会と個人の価値観というのは別のもので、それぞれ独立した働きをするものだからです。
しかし全く無関係というわけではありません。
価値には自由や絆、幸福など色々なものがあり、その中から自分の価値観を選び出すのですが社会はそこでの選択肢を与える、逆に言うとそれ以外の選択肢をあたえない働きをします。
ポエムは価値観に強い刺激を与えると思います。しかしそこで一歩ひいて冷静に考えることが要求されると思います。
コラムニストの方が言っていたように具体的に5w1hをはっきりさせてそのうえで選択をさせるのが大事だと思います。
きちんとそれはどのような自由なのか、どのような絆なのか、どのような幸福なのか、と具体的に考えることによってそれはどのような理想を現実にするのか?という現実性があるうえでの選択が出来るようになり、これも簡単にそれがいいとはいえず例えば結婚はまともに考えたら苦悩の連続ですがそれによって新しい価値観というのが生まれてきたり、体の不自由な子供が生まれてしまったけどそれによって新しい価値観というのが生まれたりというふうに不合理に見えるような現実によって新しく人生が切り開かれるということもあるのですがしかし具体的に考えることによって以前とは違った価値観を持つようになれると思います。
変わるとは? 自分が変われば世界が変わる
やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。の動画をネットで見ました。
このアニメでは変わるというのを考える場面がよくあります。
2話では由比ヶ浜結衣が三浦優美子に態度をもっとはっきりさせろと言われたり、8話では周りにハブられてる鶴見ルミが周りと仲良くなるように自分が変わることをあきらめ、1人でいることを受け入れます。10話では文化祭の実行委員の準備で、誰かに頼るように雪ノ下雪乃が変わらねばならない場面が訪れます。
主人公は自分が変われば世界が変わるというのは嘘だといっています。
実際アニメでは、変わることを今までの自分を否定し周囲と同調することのように描かれています。
周りと自分とをどう折り合いをつけていくか?はとてもむずかしい問題だとおもいました。
関係ないのですが個人的に城廻めぐりは嫌いです。文化祭の実行委員会で雪ノ下雪乃の姉の話をして、雪ノ下雪乃がどう思うか?はともかく、内輪話は姉のことを知らない人間が疎外感を感じたりするのですごい嫌いになりました。ていうかハルさんハルさんうるさい。
民主主義と当事者
民主主義はやっぱり最高の政治制度であるという本を読み、政治とはある範囲の人びと全員を拘束してしまうことがらを決めることだと書いてありました。
国家運営とかを決める政治以外にもクラスで文化祭などのイベントで何をやるかを決めたり、友達と何をするかをきめたり、会社での決定なども政治であり、こういうのをミクロの政治というらしいです。
自分はこういう考え方は面白いと思います。こういうミクロな政治には多くの人間も関わっていると思います。また、国家運営などのマクロな政治もこのミクロな政治と同じ原理で動いているのではないでしょうか。
民主主義では集団の構成員がその集団の決定に関わることが出来ます。
多数者の専制が危惧されていますが自分は正直そういうものについてはあまり危機感というものは持っていません。
そういうこと言っているけど自分の言うことが通らない僻みではないのか?それなら少数の人間の言うことが正しいのか?と思ってしまいます。
自分は民主主義で気を付けるべきことは構成員全員が参加することができるけど立場の違いをどう配慮するか?だと思います
例えば今日の晩ご飯を何にするかを民主主義的にみんなで決められたらイヤです。
なぜならその決定には関係のない人間が関わっているからです。
今日の晩御飯をみんなが決めても、そのみんながその晩御飯を食べるわけではありません。自分が晩御飯で何を食べるか決めることが出来るのはそれを実際に自分で食べるというリスクを背負っているからです。
政治ではその決定に対して生活というリスクを背負っています。
しかし、国というのは規模がとても大きく、どの決定が誰にどれだけのリスクを背負わせているかが解りにくいです。
ある案件に対して人は何らかの関係で巻き込まれています。
例えば人が誰かについて言及した時、言及された人間はその言及した人間に巻き込まれています。
巻き込まれ方によって立場は異なってきますが、その巻き込まれ方というのがなかなか解りにくいです。一見関係ないように思える人間でも間接的に巻き込まれていることもあり、更にその時の事情によっても変わってきます。
ある事態が発生した時、その関係からどの人間をどういう基準で立場を決定しどの立場の人間を尊重するべきか?を考えるべきだと自分は思います。
規範の予期理論
ハートが法(規範)を他人に共有されたルールから集合主義的接近で見つけようとしましたがこれと別の個体主義的接近から見つけようとする議論があります。
この方法から導こうとするタルコット・パーソンズとニクラス・ルーマンの主張に焦点を当ててみます。
パーソンズはトマス・ホッブズの考えた、社会に秩序があるのはなぜか?という秩序問題を考えました。ホッブズのリヴァイアサンという本では人々はすごい利己的で自然状態では自分の利益のためなら罪を犯したり、人を裏切ったりして万人の万人に対する戦いに至ってしまうのですが、人民が主権を国家に渡し、国家の法に従うことによって争いを回避できると考えました。
しかし、この秩序が長く維持されるためには規範的な要素が機能しなければならないはずなのにホッブズには規範的思考が欠如していると考え、ホッブズの利害によって人の行動が決まというる功利主義的な基板の考えからでは秩序問題は解決されませんでした。
パーソンズは相互行為する二者関係から規範が成立することを論証しました。
パーソンズは二人の人間関係で相手がどのように振る舞うかはお互いに解らない二重の不確実性(ダブルコンティンジェンシー)が成立しています。
パーソンズはこの問題を両者の間にあらかじめ価値観が存在していてお互いが相手が自分に対してどのように振る舞うのかについての期待を自分が予期できている程度には価値観(規範)を共有できている(期待の相互性)ことによって解決できると考えました。
しかし、ルーマンはパーソンズの秩序問題に対する解決を不十分だとみなしました。
ルーマンは他者の行為は規定の事実として予期することはできず、複数ある選択肢の中からの選択として予期できなければならず、他者の予期も予期できなければならないと指摘し、パーソンズの予期の相互補完性は行動の同調性で、予期の予期が外れる危険性を見過ごし、そこから生じる対立や亀裂が見過ごされてしまい、この対立や亀裂に対してこそ規範が機能を持つのであるのに。
実際パーソンズの社会観は社会の鋳型を人間に当てはめた社会化過剰的人間観だと非難されたり、対立や葛藤は社会の不可欠要素だという立場から、社会から与えられた役割にあうように演じるだけの存在ホモ・ソシオロジクスとよばれ、非難されました。
パーソンズの予期理論はルーマンと比べて予期し、予期されるものという人間像の、予期されるものという側面にあまり触れていない気がします。
単純に対象を予期する場合と対象を予期するものがどうように対象から予期されるものである場合、その予期は異なってきます
ルーマンの予期理論では人間の行為には複数の選択肢(可能性)が存在し、その中から実際に体験するのは一つだけであることから人間は常に複雑性に直面します。複雑性とは現実化される以上の可能性を持つことです。
そして世界には他者が存在し、このことによって初めて複雑性と不確定性が形成されることになります。
1人の人間がどう行為するか?という場合、単一の不確定性のみでしかもその行為者自身はどのような選択をするのかを決める事ができますが、他者が存在する場合1人の人間とくらべてはるかに複雑になり、予期の予期を考える必要があります。
言語ゲームと権力
ハートの法理論から権力と言うものについて考えて見ます。
法理論と権力の理論というのは似ているところがあります。
権力の理論には権力の発生する源泉を従うものと従わせるものという単純な2者関係の中に見つけようとする試みがありこれを個体主義的接近法といい、反対にこの二者関係による相互作用ではなく全体的な作用として権力を捉えようとする集合主義的接近というものがあるのですが、権力を集合的接近で考えてみます。
なぜ集合的接近なのかというと、個体的接近ではなぜ被服従者が支配者に従うのかを二者関係のみからでは説明出来ないからです。
権力は人々の間で集合的に作用し、人々の了解を経由し、最終的に人々を拘束するものと考えます。
権力の作用する過程は、ルールは人々が承認を満たすことで認められ人々自身に責務を課されるという正当性を得るというハートの法理論と似ています。
では権力とは言語ゲームなのでしょうか?
権力は言語ゲームではありません
権力は法などの特定の言語ゲームを実現させたりします。
しかし権力自身はルール(言語ゲーム)に縛られたりはしません。むしろ言語ゲームを実現させたり、消滅させたりと支配するのが権力です。
なぜこのように考えるのかというと言語ゲームには(内的視点としての)規範=(外的視点としての)事実という二重性から来ています。
言語ゲームのルールは規範として人々を捕らえるがすべてのルールが人を捉えるわけではありません。ある言語ゲームのルールが事実として人を捉える働きがあるときこれを権力といいます。
権力によって法の体系は見える形になりますがしかしそのかわり自分は見えなくなります。
実際何がその言語ゲームを成り立たせるのかを見ようとしても承認のルールしか見えてきません
では権力をどのようにして捉えればよいか? それは実際に潜在的に成立している言語ゲームの有り様をそのまま権力のあり方として捉えることです。
ハートは法の概念の最終章を国際法で締めくくっているのですがハートの国際法では二次的ルールは存在せずほとんど一次的ルールしかありません。
国際法は人ではなく国を対象にしているのですが、国が統治する法は二次的ルールが存在するのに対して、その国を対象にする法には二次的ルールがなく、対照的です。
実際に効力のある法的ルールというのは承認のルールによって見ることが出来るのではなく、実際に起こっているという事実からのみ(つまりルールの外部からのみ)見ることができるのです。
そして、国家というものは外的視点(実際にルールに従っているという事実)からのみ見ることが出来るのです。
関係ないのですが、これは社会契約説と対照的だと思います。
社会契約説は、人々が契約(承認)によって統治機構に主権を与えたという考えで、社会契約説という言語ゲームの内的視点から国家を見ていると言えます。
法というのは、人々の承認によってそのルールに従っていると、内的視点からは考えれますが、外敵視点からは権力によってそのルールを事実として有効なものにしていると見えるのです。
ルールから国家というものがどのように出来ていくのか?を考えてみましょう
社会には複数のルールが存在します。あるルールを守ると別のルールが守れなくなるということが起こったとします。
その時2つのルールはそれぞれそれぞれに対して外的視点を取り、抹消しようとします。
この時どちらのルールに人々は従い現実となるかは不確実です。
この2つのルールは自分自身の正当性が疑われていてこの2つのルール自体はこの事態にどうにもなりません。このことにハートは見抜いて二次的ルールを考えました。
二次的ルールはルールとそのルールに関わる行為に言及し、両方をつなぎ合わせます。
こうして二次的ルールは一次的ルールの不確実性を取り除くことが出来ます。
しかし、その二次的ルール事態も不確実なもののはずです。
二次的ルールの不確実性は見えないで放置されているだけなのです。
二次的ルールは、一次的ルールの不確実性をなくすのではなく、一次的ルールに対する優位性を示すことで人々にそのルールに従っていると信じさせることです。
権力は言語ゲームに人を巻き込み従わせるのですが、その時人々は事実を言語ゲームの内的視点で見て、逆に言語ゲームの外的視点からは見えなくするのです。
自分達は権利という言葉を用いずに日常生活を送ることが出来るでしょうか?
自分達の生活は権力によって言語ゲームの内的視点につなぎとめられているのです。
ゲームの内と外
ハートは法体系が実際に存在するかどうか?を決めるのに事実として人々がその宣言したルールに従っているかどうか?公機関がその2次ルールを守っているのかどうか?この2つの条件によって決まるといいました。
つまりハートはそのルールが存在しているかどうか?を法体系の外から見た時に事実として確認できるかどうかによって捉えようとしたのです。
例えばあるルールが存在し、それが妥当であるかどうか?は法体系の内部からつまり承認のルールに従っているかどうか?から導くことは出来ますが、法体系そのものの存在は法体系の内側からは証明することが出来ず、事実として人々がルールに従っているかどうかからしか判断することは出来ないのです。
ハートはこの法体系の外部からの視点(外的視点)を導入し外的視点からは事実があり、法体系の内部(内的視点)には従うべき規範があります。
つまりハートは(外的視点)事実=(内的視点)規範という二重性を強調しました
あるルールが存在するとします。そのルールの正当性を保証する承認のルールが存在し、そのルールは承認のルールの規範に従い内側にいても承認のルール自体はそのルールから自由でルールの外側に存在します。しかしその承認のルールもその正当性を与える別の承認のルールに従っていて内側にいることになります。この承認のルールの正当性を問題にすればその二次的ルールからは外の視点に立つことが出来ます。が、それは新しい承認のルールの内側のみで問題になります。そして正当性を巡ってたどっていくと最後にはこれ以上正当性を保証することができない究極の承認のルールにたどり着きます。
人は法体系のルールにしたがっている(内的視点にいる)限りでは法体系の外部に出ることは出来ません。
法体系には人間を法体系の内部の視点に止めようとする内閉の性質をもっているのです。
言語ゲームと社会理論2 ハート
ハーバート・ハートという人は法の概念という本を書きました
言語ゲームと社会理論の著者はハートの法理論はヴィトゲンシュタインの言語ゲームと考えが似ていると考えました。
ハートの考えに一次的ルールと二次的ルールというものがあるのですが、ルールと言語ゲームの関連性について考えてみたいと思います。
言語ゲームというのは人間のふるまい一般のことです。トランプゲームのような勝負のつくゲームも言語ゲームですがそれ以外にも道徳や数学など勝負の付かないものも言語ゲームです。
これらには全部ルールというものがあります。トランプゲームでも数学でも道徳でも0で割ってはいけないとか~はしてはいけないとか。そしてこれらのルールに従う事によって言語ゲームというものは成り立っています。
逆に人間のふるまいでルールが存在し、それに従うのは言語ゲームです。
つまり言語ゲームにはルールが存在し、ルールに従うということは言語ゲームであるということです。
ハートは法の概念という本で法とは一次的ルールと二次的ルールの結合であるというふうに考えました。
一次的ルールとは責務を課すルールで、ある不都合が起こった場合に誰の行為によって不都合が起こったのかを追求しその人間に責務を課します。
二次的ルールとは(そのルールに正当性を得るためのルール)承認のルール、(ルールを変更するときのルール)変更のルール、(それがルールに反しているかいないかを判断する)裁定のルールのことです。
一次的ルールと二次的ルールの結合とはどういうことでしょう?
結合とは言及するということです。
つまりこれがルールであると宣言することによって一次的ルールと二次的ルールを結合させるということです。
一次的ルールについてはルールについての言及がなくても暗黙の了解で~に責任を課すべきだとなります。
しかし、二次的ルールでは言語を使わなければ、ルールを承認することも、変更することも、裁定することも出来ません。
つまり言及することによって暗黙のルールから明示的なルールへと変わります。
ちなみに一次的ルールと二次的ルールは相対的なものです。
ある一次的ルールがあり、それの(正当性を得るための承認のルール)二次的ルールと言うものがあるのですが、ならその(正当性を得るための承認のルール)二次的ルールが正当であるという保証はどのようにして得るのか?その時はその二次的ルールを一次的ルールとして考え、そのルールを保証している二次的ルールというものが存在しているのです。
つまり承認のルールが正当であると保証する承認のルールが存在する訳です
そしてルールの正当性をどのようにして得るのかを考えていくと
一次的ルール←二次的ルール(一次的ルール)←二次的ルール(一次的ルール)・・・
という風にキリが無いです
ヴィトゲンシュタインが数学や論理学の正当性を巡って
命題←根拠(命題)←根拠(命題)←根拠(命題)
という泥沼にはまっていったことと同じことがハートの法理論の展開でも起こってしまいます。
ヴィトゲンシュタインは最終的にこれ以上しめせない根拠にまでたどり着き結局その根拠は自らの正当性を示すことが出来ないが、人々はそれを根拠として承認することによって言語ゲームは言語が世界と調和するという保証は必要はなく人々が言語と世界とを調和するものとして営むものだと言う風に結論を出しましたが、ハートはルールの正当性をルールそれ自体では得ることが出来なくて(つまり承認のルールでは得ることが出来ない)、人々がこのルールはこの二次的ルール(承認のルール)を正当であると人々が承認することによって得ることが出来ると考えました。